皆さん、こんにちは!「ミラクルモンスター」のインタビュー記事です。
今回は、読谷村出身の唯一無二のキャリアを持つロックスター、ナオキ屋さんに、その活動と人生について深く伺いました。

ナオキ屋 プロフィール
島袋直樹さん、通称「ナオキ屋」さんは、読谷村出身の多才なアーティストです。20代後半から音楽活動を開始し、現在は某局のラジオパーソナリティ、自身の音楽活動「ナオキ屋」、週刊歴代での月1連載漫画家として活躍されています。さらに、某RKの美人アナウンサー、竹中智香さんのソロCDデビューのプロデュースも手がけています。彼の活動は多岐にわたり、飽き性ではないものの、様々なことに挑戦したいという意欲があるそうです。
普段は米軍車両のチェックを行う基地関係の仕事に約20年間従事するサラリーマンという顔も持ち合わせています。
ナオキ屋さんの活動をチェック!
https://naokiya-web.studio.site
- Facebook, Instagram, Twitter
- 竹中智香さんプロデュースCD「元からトモカ」(写真集付き)はラジオ沖縄のウェブサイトでネット通販されています。
この番組「ミラクルモンスター」は、NPO法人 Mirai Kanaiの提供でお送りしています。ユニークな経歴や珍しい仕事をしている方を応援する番組です。応援団スポンサーも募集中ですので、ご興味のある企業様、個人様はNPO法人 Mirai KanaiのInstagramへ「スポンサー」とDMをお願いします。
イ:ナオキ屋さん、本日はありがとうございます。まずは、子供の頃や学生時代に興味を持っていたことで、今に繋がっていることはありますか?
ナオキ屋:いやー、今に繋がっていることですか、あんまり言いにくいんですけど、読谷村はね、非常に閉鎖的で、僕が悪いんですけど、ものすごくスーパーいじめられっ子だったんですよ。最近、同級生の女の子に会ったら「あんた、本当に一生懸命頑張ったんだね」って泣いて言われて、僕がいじめられてたからみんな心配してたらしいんです。それぐらいひどいいじめられっ子でしたね。
イ:それは大変でしたね。それがどう今に繋がってくるんでしょうか?
ナオキ屋:でも、途中で何か面白いことに変換できるようになって、高校ぐらいから「面白いグループ」に入って、ああいう風にやっていけばいいんだ、と学んだんです。ただ、僕らの時代はロックとかメタルとか、音楽はあまり流行っていなくて、むしろ体育会系がヒーローで、ロックやメタルをやっている人はクラスの下の方にいてダサい感じでしたね。後ろ髪を伸ばしていると「男じゃない」と言われるような時代でした。だから、学生時代はあまり音楽をしていませんでしたね。
イ:そうだったんですね。では、社会に出て初めて選んだお仕事で、今に繋がっていると感じることはありますか?
ナオキ屋:ええとね、父の紹介でアルバイトを色々やって、一度無職の時期があったんです。その時、父に「何もやってないなら知り合いのたこ焼き屋をやりなさい」と言われて。やったことなかったけど、何もしてないからやってみようと。「このお店の名前、お前が決めていいよ」と言われて、そこで「ナオキ屋」って決めたんです。
イ:なるほど、たこ焼き屋の名前が「ナオキ屋」だったんですね!
ナオキ屋:そうそう、屋号をナオキ屋にしたんです。たこ焼き屋自体は半年で辞めましたけどね、親父に売上が良くないからって(笑)。その後、カメラ屋に行ったり、基地関係の仕事にコネで入ったりしましたけど、その「ナオキ屋」という名前だけは残して、その後バンドやったり漫画描いたりしてたんです。
イ:ギャグ漫画も描いていらっしゃったんですね。ターニングポイントになった出来事はありますか?
ナオキ屋:漫画は描いてて良かったと思うし、連載もしましたけど、途中で「つまんねえな」って思って、音楽の方が楽しいなと思ってバンドを始めたんです。ターニングポイントは、2000年代の「モンパチブーム」ですね。僕が26、7歳、30手前くらいの時で、漫画を描いている場合じゃないと思うくらい、モンパチがめちゃくちゃ輝いて見えたんですよ。
イ:その熱狂が、人生を大きく変えたんですね。
ナオキ屋:そうなんです。同級生は音楽をかじった程度で辞めていったけど、僕はライブに行って、20代後半で人生や将来を考えなきゃいけない時期なのに、全てを投げ捨てて「ここに行きたい」と思ったんです。沖縄のモンパチや沖縄ブームが、30手前の男の人生を狂わすぐらいの熱量で僕にも来たんですよ。それで「こんなことしてる場合じゃない」って友達とまたバンドを始めたんですけど、結局「やりたくない」って言われて、その後一人で「ナオキ屋」として音楽を始めました。「一人でもできるんだな」って。だから、29歳くらい、30手前でナオキ屋として音楽を始めたのが、大きなターニングポイントですね。
イ:29歳から始めるのはすごいですね。世間では25歳くらいまでに売れなければ辞める、という風潮があったりしますから。
ナオキ屋:そうなんですよ。ちなみにたましい(Shaolong To The Sky)とは同級生なんですが、彼には「お前は全てにおいて10年遅れてきてるよ」って言われますね(笑)。一度、音楽で食っていこうと思って仕事を辞めたんです。多分それは20代とか30代前半で来る経験を、僕は40代でやったから、「全て10年遅れ」って言われるんですよ。
イ:なかなかない経歴ですね。その仕事を辞めていた時というのは、電光掲示板を背負っていた時期ですか?
ナオキ屋:電光掲示板は、仕事を辞めてまた戻ってきてからですね。ワンマンライブの告知をするために、「動く電光掲示板」として背負って歩いていたんです。Amazonで2万円で売ってるLED電光掲示板を買って、モバイルバッテリーを入れてギターバッグにくっつけて、毎日夜中に歩いてました。そうしたら、一緒に歩こうって人がどんどん増えて、最終的には7、8人で歩いてましたね。選挙みたいに手も振ってました(笑).
イ:それは、かなり怪しい光景だったでしょうね(笑)。ナオキ屋さんのライブは独特だと聞きましたが。
ナオキ屋:めちゃくちゃ怪しかったですよ(笑)。ライブではいきなりお客さんのことを「売人」って言い出したり、粉ジュースをアルミホイルに叩いてからストローで口から吸おうとしたりしてました。
イ:口から吸ってたんですね?!火で炙ってから?!それ、放送できる話ですか?(笑)
ナオキ屋:砂糖ですから大丈夫です(笑)。それで盛り上がってたんですけど、数年前に危険ドラッグが流行って、僕がやってたことと似てるなって思って。子どもにも見せたくないし、大人になったんで、最近はもうやってないです。
イ:素晴らしい決断ですね!では、今のお仕事について深く伺っていきたいのですが、どんなお仕事をされているんでしょうか?
ナオキ屋:すみません、僕、普段はサラリーマンなんですよ。ライブで色々やりながらも、ちゃんとした仕事をしてるんです。42歳の時に、何も考えずに仕事を辞めてみたんですが、辞める前は通勤時間や会社の人との意味のない会話に常にイライラしてました。「俺はなんでこんなことに時間を使ってるんだ、やりたいのはこれじゃない!」って。もっと音楽や楽器の勉強がしたいと思って、社長に「音楽で生きていきます」と啖呵を切って辞めたんです。
イ:なるほど、音楽一本でいこうと決めたんですね。それでどうなりましたか?
ナオキ屋:そうしたら、もうスーパー何もできないわけですよ。朝も起きれないし、当時は「笑っていいとも!」をやってたんですけど、その時間にしか起きれない。毎日自己嫌悪に陥ってました。「今日も起きれなかった」って。音楽を勉強してもお金は稼げないし、次の日何があるわけでもない。ただ貯めてたお金が減っていくだけで。本当にこの自堕落な生活で、ひたすら「仕事に戻りたい」としか思ってなかったですね。
イ:辞めた目的と真逆の感情が生まれたわけですね。
ナオキ屋:そうなんです。お金がないから、デパートで3000円くらいの時計を買うのに30分も1時間も悩むようなみすぼらしい生活になってしまって。そんな生活が2年くらい続きました。何かできないかと勉強もしたけど、やりたいのは音楽メインだから、全くお金になる気がしない。見切り発車で辞めてるから「ヤベえな、ヤベえな」ってずっと思いながらも、友達には啖呵切ってるからいつも笑顔でいましたね。
イ:つらい2年間でしたね。
ナオキ屋:そしたらたまたま前の会社の外国人社長が来て、「ナオキ、何やってんの?」と聞かれて。「何もやってないです」と答えたら、「また俺たちのところに来たら?」って言ってくれたんです。それで「ぜひお願いします」って言って、結局2年後に同じ職場に戻ったわけです。
イ:出戻りだったんですね。戻ってみて何か変化はありましたか?
ナオキ屋:その時思ったのは、2年後に戻ったら、先輩のどうでもいい話が「さすがですね」って全然聞けるようになったんですよ。そして、給料をもらうのがこんなに尊いことかと。黙っていても(ちゃんと働いたら)給料を振り込んでくれるって、こんなありがたいことないなって思ったんです。だから、仕事に対するモチベーションが変わって、前まで怒っていた先輩のテレビの話も「なるほど、そんな話があるんですね」って聞けるようになりましたね。
イ:まさに「サラリーマン ナオキ屋」の気づきですね。
ナオキ屋:僕にとってはすごく良くて。人にお金を払ったり、仕事を作るのがどれだけすごいことか、僕にはできなかった。だから、サラリーマンとして安定した生活をしながら、余暇の時間全てを音楽にフルコミットしようと。「電光掲示板とか買って歩いたり、それくらいだったらできるな」ってなったんです。仕事しながらでも、違う時間でバーンとできる、と。本当にあの時辞めてよかったなと思います。2年は長くて辛かったけどね。
イ:とても良い気づきですね。振り切ったからこそ感じられることだと思います。
ナオキ屋:極端なんですよね。でも最近また先輩の話がつまんなくなってきて(笑)。テレビ見ないからテレビの話聞かされるとキツいんですよ。まあ、都市伝説の話は好きなんですけど、それも全部知ってるし(笑)。まあ、そういったことがあって、今音楽活動ができている状況です。メインの仕事があるのはありがたいし、僕にとっては良いバランスですね。
イ:音楽活動のやりがいについて教えてください。
ナオキ屋:ちょっと話がずれるかもしれないけど、コロナ禍でみんな落ち込んだじゃないですか。僕も仕事が「来るな」って言われて、やることがないから山ばかり登ってました。
イ:山に目覚めたんですね(笑)。
ナオキ屋:そうなんです(笑)。それで、僕が好きなアメリカのミュージシャン、ルイス・コールがコロナ禍で全くSNSを更新しなくなったんです。彼がSNSに出てこなくなったんですよ。僕が落ち込んでいる時、彼の曲を聞いて元気になっていたので、高揚するような音楽を作ってくれてありがたいなって思って。
イ:その音楽が支えになっていたんですね。
ナオキ屋:はい。金はないけど、アメリカまでライブを見に行きたいと思うくらいでした。再就職はしてましたけどね。なかなかライブをしなくて、そしたら「日本に来る」って言うから、大阪まで見に行ったんです。もうね、彼の作る音楽を味わえてめちゃくちゃ幸せだなって、その時初めて思ったんですよ。沖縄に帰って、ドラムのオノウエ君に「俺はあの音楽を再現するんだ、協力してくれ」って言って、そこからまたバンドで活動していこうという話になりました。今は一人でもやるけど、ブラスセクションがあるようなバンドをやりたいと淡い期待を込めて思っています。
イ:音楽や漫画を作る上で、譲れない価値観はありますか?
ナオキ屋:漫画はちょっと置いといて、音楽を作る時は、とにかく聞いている人がびっくりしてほしいし、この世の中にできるだけないような音楽を作りたいと思っています。それは歌詞の内容ですね。例えば、「オレオレロック」という曲は、僕が口座番号を言って「あなた振り込んでください、なぜなら私が日本の借金を払うから」って、相手にリアクションを求めるんですよ。あとは、ずっと紅芋のことを歌う「ベニーモタウン」とか。落語をCDに入れたりもします。
イ:かなりユニークですね!
ナオキ屋:とにかく、僕ができることは「変なことを歌う」ことです。誰かに真似できないような。でも、それがお笑い芸人の企画みたいになってはいけないと思っているので、ちゃんとパンクの曲を作る時は、ダムドやピストルズ、クラッシュをめちゃくちゃ勉強します。ブラックミュージックやレゲエなども、その筋の人が聞いても鑑賞に耐えられるように、後ろのトラックは頑張って作っています。でも、乗っける歌詞は、僕しか言えないような変なこと、人が言わないようなことを言うように心がけていますね。
イ:ブラックジョーク的な要素も多いけど、しっかり基礎があるんですね。
ナオキ屋:ええ。国際映画祭の予選で、僕がAV女優の歌を歌った時に、審査員のすごく厳しい女性(今の吉本沖縄の社長)に「何がしたいか分からない」って怒鳴られて、「あなたはスクールに行った方がいい」ってパンフレットまで渡されましたね(笑)。あと、昔は「モテたい」がモチベーションで音楽をやってました。結婚した時期は、モテる必要がなくなったから半年くらい音楽活動を休んだりもしましたね(笑)。「お腹痛いんで」って連絡を断ったり。
イ:そんな理由だったとは!モンパチに心躍らされて、音楽を愛していたんだと思ってました(笑)。
ナオキ屋:もちろん根底にはありますよ。でも、やっぱり上がり下がりがあって、メンタルが上がっている時は電光掲示板を背負ったりするけど、下がってる時はネット見たり、って感じですね。
イ:最後に、ナオキ屋さんの今後の展望について教えてください。今一番挑戦したいことや、達成したい大きな目標はありますか?
ナオキ屋:はい。直近の夢は、竹中智香さんというスーパー美人アナウンサーのプロデュースした写真集付きCDを、もっともっと広めたいですね。自分のことのように体重を乗せて売っていきたいと思っています。
イ:他にも何かありますか?
ナオキ屋:これは良いことなのか分からないですけど、今52歳で、60歳を目処にしたら、あとアルバム4枚くらい出せるかなって考えているんですよ。アルバム出したり漫画描いたり、どんどん作っていかないと、多分目も見えなくなったり、体も動かなくなったり、病気になったりすると思うんです。今はまだ喋ったり楽しい話ができるけど、そうなったらテンションも下がると思うんで。
イ:終わりを意識することで、モチベーションになっているんですね。
ナオキ屋:そうなんです。終わりを意識したら、自分に馬力がかかって頑張ろうってなるんですよ。もっとずっとやっていきたいんですけど、終わりを意識しながら物を作ったり、面白いことをやっていきたいなと思っています。それが逆にモチベーションになっていますね。
イ:ナオキ屋さんのようにユニークなキャリアに憧れている人や、悩んでいる若い世代にメッセージやアドバイスをお願いします。
ナオキ屋:まず、小学校の時にバキバキにいじめられてた人じゃないと無理です(笑)。それぐらいの耐久性がないと無理です。そして、高校時代にロックとかが流行ってない人。それだったら僕みたいに再現できますよ(笑)。
イ:条件がピンポイントすぎますね(笑)。
ナオキ屋:でも、それが僕のモチベーションになったりするんで(笑)。まあ、悩んでる人もいるかもしれないですけど、僕、20代の頃は全然面白くなくて、漫画描いててもずっと暗かったんですよ。でもね、だんだん面白くなっていってはいるんです。体力は落ちてるけど。楽しいことを考えてネガティブなことを言わないようにしたら、面白いことが起こったりしますね。
イ:なるほど。
ナオキ屋:昔は「そんなことやるな」「お前大丈夫か?」って言われたこともありました。でも、それも気にせずどんどんやっていったら、いつの間にかみんなが応援し始めたんですよ。僕の状況は変わってないのに、「頑張ってるな」って。だから何が言いたいかと言うと、ずっと続けて、楽しかったら続けて。どんどん続けていれば、年を取っても楽しいことあるし、もっとあるんじゃないかなって思いますね。
イ:やり続ければ、文句を言われなくなって、逆に応援されるようになるというのは、とても励みになります。
ナオキ屋:そうなんです。昔CDを出した時、すごく怖い読谷のヤンキーのところにCDを売りに行ったんですよ。怖かったけど呼ばれたから行ったら、居酒屋で「これタダでもらえるのか」「コースターにしよう」って針の筵で。でも、「いやいや、これ売り物なんだよ」って一人ひとりに返して説明したら、なんだかんだ言って相当買ってくれたんです。そのあと、その男の子が「ナオキ、みんなあんな風に言ってるけど、めちゃくちゃ応援してるよ。お前がいないところでめちゃくちゃ褒めてるよ」って言ってくれたんです。だから、田舎では文句を言ったり「やるな」って言ったりするけど、実際は頑張ったら逆に応援しないとダサいと思うんですよ、この年になったら。あまりネガティブなことは聞かなくなりますね。みんなが喜んでくれるから、勝手にモチベーションが上がります。
まとめ
ナオキ屋さんの型破りなキャリアと、音楽への深い情熱、そして人生に対する独特な哲学に触れることができました。いじめられた経験をモチベーションに変え、一度は挫折を味わいながらも、サラリーマンとしての安定と音楽への「フルコミット」という独自のバランスを見つけた彼の生き方は、私たちに大きな学びと勇気を与えてくれます。
ナオキ屋さん、本日は本当にありがとうございました!またぜひ、面白いお話を聞かせてください。
NPO法人 Mirai Kanaiが送る「ミラクルモンスター」、来週もユニークなキャリアストーリーをお届けしますのでお楽しみに!