記事一覧

無明の光

——「在り方」をこんなにも静かに突きつけられるとは思わなかった

昨日上間喜壽独演会『無明の光』を観てきました。

正直に言うと、

「面白かった」「感動した」

そんな言葉では足りません。

これはエンタメというより、体験。

しかも、かなり内側に踏み込んでくる体験でした。

無明とは「知らないこと」じゃない

無明。

仏教でいう、迷い、気づいていない状態。

でもこの舞台で語られていた無明は、

「知識が足りない」という意味じゃなかった。

むしろ——

知っているつもりで、見ようとしていなかったこと

そのこと自体が無明なんだ、と。

人は「見ているようで、見ていない」

舞台を観ながら、何度も浮かんだ言葉があります。

見ようと思っていないものは、人は見えない。

目は開いている。

情報も入ってきている。

でも、意識が向いていなければ、それは存在していないのと同じ。

これはまさに

心理的盲点の話そのもの。

私たちは、

「自分はちゃんと見ている」

「分かっている」

そう思い込んでいるからこそ、

本当に大切なものを見落とします。

欲望は、自分のものだと思っているけれど

舞台の中で感じたのは、

欲望や不安、怒りの多くが

「自分発」ではない、ということ。

人と比べて焦る。

人の評価で揺れる。

「こうあるべき」に縛られる。

それらは全部、

模倣から生まれている。

自分の人生を生きているつもりで、

実は他人の基準で動いている。

気づかないまま。

ブッダの言葉が、説教じゃなく体感で来る

渇愛。

執着。

無明。

空。

これらの言葉を、

もし教科書的に説明されたら、

きっと頭で理解して終わっていたと思います。

でも『無明の光』は違った。

笑いの中で、

沈黙の中で、

日常の何気ないエピソードの中で、

「あ、これ自分だ」と気づかされる。

それがもう、

渇愛であり、執着であり、無明。

そして同時に、

それに気づいた瞬間が、

ほんの一瞬の「空」でもある。

この独演会が一番語っていたのは「在り方」

一番強く残ったのは、

何をするか、何を得るか、ではなく

どう在るか

・どんな意図で生きているのか

・どこに意識を向けているのか

・何を見ようとして、何を見ないままでいるのか

人生は、

努力や根性よりも前に、

意図と認知の向きでほぼ決まってしまう。

「あなたが思った通りに、あなたの人生はなる」

この言葉が、

重たくも、優しくも、

舞台の余韻として残りました。

光は、外から当てられるものじゃない

『無明の光』というタイトル。

光は、

誰かが与えてくれるものじゃない。

答えを教えてもらうことでもない。

自分が見ようとした瞬間に、立ち上がるものなんだと、

この舞台は教えてくれました。

静かで、派手じゃなくて、

でも確実に、深いところに届く。

答えが欲しい人より、

問いをちゃんと持ちたい人にこそ、

刺さる独演会だと思います。

しばらく、

この余韻は消えそうにありません。

関連記事

TOP